アントニオ猪木
ブラジル移民だった猪木少年は日本のスーパーヒーローであった力道山に連れられて日本プロレスに弟子入りし力道山の付人になる。
凄まじいプロレスのトレーニングそして力道山の付人の仕事は毎日が凄惨なものだったそうな。
日本のスーパーヒーローでありながら力道山の人格は最悪だった。少しでも気に食わないことがあると殴る蹴る罵声を浴びせる。
弟子は死んでもかまわないと思っていたのだろう。一升の酒を一気飲みさせてもう一升飲まされ放置され。またある日は力道山のモーターボートで途中で降ろされた。東京湾のど真ん中である。猪木さんは生きるため一晩中泳いで岸にたどり着いた。
数年後、力道山は急死する。
日本プロレスはエースを失いジャイアント馬場と猪木をエースとして売り出すことになる。
馬場猪木の両エースの頃は私は小学生だったが、家族とテレビ観戦で熱狂したものだ。
しかし、数年後、ずさんな経営を指摘した猪木は日本プロレスを追放され独立して新日本プロレスを設立する。
私がいちばんプロレスを見ていたのは昭和55年以降の10年ほどだ。
新日本プロレスにはシリーズ(後楽園ホールで開幕して全国を1ヶ月ほど巡業し、最終戦を蔵前か両国の国技館)ごとに抗争がありストーリー性があるので引き込まれたのかもしれない。
毎週金曜日夜8時にテレビを見てもらうためにどうしたらいいのか社長でありエースでありプロモーターの猪木さんは常に考えていたという。
格闘技でありエンターテイメントであるプロレスを通して猪木さんが私に教えてくれたものは何か、この頃考えさせられる。
猪木さんが弟子たちに言っていた「常識なんかぶち壊せ!」は私の座右の銘である。